文化的遺伝子と僕

人生で出会った文化的遺伝子(ミーム)について、思ったことを書いていきます。

そして僕はいま小説を書いている

小学生の頃、漫画を好きになった。

中学生の頃、ゲームを好きになった。

高校生の頃、アニメを好きになった。

大学生になって、映画を好きになった。

そして僕はいま小説を書いている。

 

なぜ小説を書くのか

 

きっと簡単には答えは出せないと思う。なぜならいろいろな理由をでっち上げることができるからだ。

 

例えば、才能がないことが挙げられる。僕は絵はかけないし、プログラミングも苦手だし、声優みたいに綺麗な声は出せないし、絵を何枚も動かすこともできない。

 

なぜ小説を書くのかを、ここに書き記したいのは、結論を出したいからではなく、断片を記録しておきたいからだ。

 

昔から、人間は〈破滅の陽炎〉だと思っている。つまり、そのときそのときの心情に行動を左右されやすいという、行動経済学や心理学なんかでは当たり前の、人間の〈不合理性〉についてここでは言っている。

 

だから生きている間にも、人間はとかくいろいろなものを想像する。難解な方程式の解法や世紀の大発見、いいストーリーのつづきなんかを、バス停で、Bath(風呂)で、シンク(think)で思いつくなんてことは、ざらだ。

 

だから僕は書き記す。生きている間に浮かび上がった、発送の上澄みを、掬いとりたいからだ。

 

なぜならそれこそが、個人の人生を最も豊かにする特効薬のひとつだからだ。

 

彼らが書くことを要請してくる

 

絵が描けなくて、演技も下手で、運動も苦手で、プログラミングも苦手で、撮影技法も知らなくて、人生経験も皆無な僕が、小説を書く理由は才能がないからだけではないと思っている。

 

小説を書くのに、才能はいらない。初期費用はたぶんクリエイターの中ではずば抜けて安いし、日本語さえ知っていれば本当に誰でも書ける。世の中に公表しないかぎりは、自分は世界で一番面白い作家だ。でも小説を書くうえで必要だと思ったことがある。

 

必要なことはたぶん、才能をつくることだ。才能があるではなくて、0からつくる。もちろん自分の人生観を才能という社会の求める劇性(ドラマチック)に転嫁しなければいけないから、人生観が0の人はまずそこから始めなければいけない。

 

それには多くの犠牲を強いられなければならない。

 

つまり、圧倒的に孤独であること。外部との接触を断ち、自分の中に哲学を醸造しなければいけないということ。

 

孤独の中ではだれも助けてくれないし、死んでも気付かれない。だがそこでは時間も、正義も、悪も、全て思いのままだ。何を考えても自由だ。

 

つまり、人間の外部性の影響を極力省くことから始めなければいけない。

 

登場人物が笑えば、もちろん僕も笑う。登場人物が悲しめばもちろん僕も悲しむ。登場人物が悩めば、もちろん僕も悩む。

 

登場人物が戦えば、もちろん僕も戦わなければいけない。

 

しかし、登場人物が死んでも、僕は生きなければいけない。

 

なぜなら僕は現実に生きているから。彼らは虚構で生きているから。

 

なぜなら僕は創造者であり、神であり、語り手であり、継ぎ手だから。

 

創造者である以上、僕が想像しなければ彼らは生きられない。もちろん彼らは死にたくないから、僕に書くことを要請する。

 

僕は楽しいから小説を書いているのではなくて、書かざるを得ないから書いているらしい。僕は彼らに死んでほしくない、生きてほしいから小説を書いている。

 

小説を書くことは呼吸することと同じで、生きていることと同じで、彼らの住む世界に対して人生を捧げることと同じである。

 

つまり僕は思考の上で、生死をわける戦いをしているらしい。

 

創造者である以上、生みだした世界に責任をもつことは当然だ。彼らには大いに生きてほしいからだ。だから歴史や経済、物理世界、人間の心理、生息する動植物、時代、イデオロギー、文化を知らなければいけないのは当然だ。そしてそれら世界の全ての事象を聖母マリアのような懐の広さをもって愛しなければいけないのは当然だ。

 

人は人生のうちで培ってきた世界を、何かかたちにして残さなければいけないと躍起になる生き物だ。例えば、芸術、子息、財産、地位、特許、科学的功績、創作物など。

 

僕は人だから、もちろんそうする。きっとあなたもそうするはずだ。

 

きっと近縁種のチンパンジーでは、こんな奇怪な文章は理解できないだろうから。

 

そして僕はいま小説を書いている。