文化的遺伝子と僕

人生で出会った文化的遺伝子(ミーム)について、思ったことを書いていきます。

【PERFECT BLUE】これは最高の青春活劇です【一周目】

こんにちは、自称、原理主義です(現実主義者ではありませんよ)。

 

きましたきました(大興奮)! 今敏監督映像作品の記念すべき第一作目「PERFECT BLUEですよ~~!

 

今回は「一周目」です。→ は?

 

つまり、「どうせ何回も見るんだから、きっと考察も変化するだろう」「なら、むしろ回数ごとに感想を書いていった方が、自分の中の変化が楽しめるんじゃないか」

 

「よし。回数ごとにどんどん考察アツくしちゃうぞい!」

 

というわけなんです(どういうわけなんだ)。しかし、これがこの映画の本質と言ってもいいでしょう。

 

つまり、二項対立を用いて、解釈のしかたを多様に用意していることこそが「現実と虚構の魔術師」今監督の狙いだということです。

 

※これは「物語に対するスタンス」にも関わってくる小学生並みの話ですが、長くなるのでまた今度。

 

なので回数を追うごとに矛盾したことを書く可能性が高いですが、その変化も楽しめればいいなと思っています(許されるはず、いや許されるべき、いや許してね)。

 

だって大好きなんだもの!

 

PERFECT BLUE のテーマ

 

この映画はサイコサスペンスではないと僕は思います。

 

もちろんサイコホラー要素は多々ありますし、殺人犯人を推理するサスペンス要素も散りばめられています。

 

エログロあります。ホラー演出もあります。

 

しかし、それらは全てOVAとして、当時のビデオショップで少しでも目立ちたいがための、副次的な要素に過ぎないと思うんです(実際、あのシーンはすこし過激にし過ぎた、と特典映像で反省を吐露しています)。

 

監督のテーマはそこにはないと思うんです(あくまで個人の意見ですよ~)。

 

分かる人が見れば、誰が死ぬかも、犯人の正体も、序盤ですぐに分かってしまいます。伏線は良心的なまでに張られていますし、仕掛けは特に目新しいものではありません(個人の意見です~~!)。

 

なので、PERFECT BLUEを、推理ドラマでありがちな犯人当てゲームだと思っているの人は、完全に勘違いしていますし、的外れな解釈をしてしまっています(純度100%個人の意見っすよ)。

 

ではこの映画のテーマは何なのか?

 

それを、順を追って語っていきます。

 

PERFECT BLUE の意味を知っている人はひとりもいない

 

見た人は必ず疑問に思ったはずです。

 

『で、結局「PERFECT BLUE」というタイトルの意味ってなに?』

 

実は意味は分かりません。なぜなら今監督自身がそう言っているからです。下に当時のインタビュー記事のリンクを掲載しておきます。↓

 

konstone.s-kon.net

 

ここからわかるように、竹内義和の原作小説パーフェクト・ブルー 完全変態からタイトルと基本的な設定だけをもらっただけなので、意味は竹内先生にしか分からないと思います。しかし、原作小説の内容は今監督の「PERFECT BLUE」とは違っているので、別作品と捉えるのが妥当です。つまり、原作者の竹内先生に聞いても分からないということです。

 

これ、めちゃくちゃ面白くないですか?

 

つまり、この世界にPERFECT BLUEの意味を知っている人はひとりもいないんです。逆にいえば、誰もがこのタイトルに、そしてこの映画に意味をもたせることができるんです!

 

あなただけの「PERFECT BLUE」

 

見る人を選ぶ作品かとは思いますが、見た人はきっとこの映画に自分だけの意味をみつけることでしょう! それはきっとひとりひとり異なったPERFECT BLUE。

 

あなただけのPERFECT BLUEです。

 

もちろん、僕だけのPERFECT BLUEも生まれました!

 

それを今回語っていきたいのです(しみじみ)。 

 

それでは、僕が思うこの映画のテーマ、それは――。

 

最高の「青」春活劇 = PERFECT 「BLUE」

 

あ、ここ笑うとこですよ。

 

『なんだよ。ダジャレかよ。たいして上手くもねぇし』

 

『何言ってんだこいつ。あのPERFECT BLUEが青春劇なわけないだろ!』

 

たくさんの幻聴がきこえてきます。えぇ……。

 

しかし! はっきり言います! PERFECT BLUEは最高の青春だ! と。

 

デタラメな人生こそが本物の私

 

「アイドルの霧越未麻とはもうおさらばっ!」

 

未麻の雑多な部屋は、完成されていない未麻の人格のメタファーとして機能しています。つまり、アイドルから女優へと心機一転しようとしつつも、心の中にはまだ迷いがある状態です。

 

まさしく青春要素です。夢だった女優にはなれた。けど、これが私の本当になりたかったものなの? 私の夢って、一体……。という夢と現実の狭間でゆれます。

 

初めての仕事は「あなた、誰なの?」の一言セリフと3カットだけ。あげく脚本家のクソシナリオによってレイプシーンを撮る羽目になり、けぼーんカメラマンによってヘアヌードを撮る羽目になり、この選択が本当に正しいのかだろうかと激しく葛藤します。

 

多重人格ドラマの脚本、ウェブサイト上の架空の未麻とリンクさせることで、未麻にしかみえないバーチャル未麻の存在感を際立たせ、表面的には拒絶しますが、やっぱりアイドルのほうがよかったという迷いを強調します。

 

「あなた、誰なのよ!?」『私は本物の霧越未麻よっ』

 

またまた青春要素です。あのときこうしていれば! という過去を悔やみ、今を嘆く葛藤。本当の私って一体……。自分探しあるあるです。

 

それでも女優という夢を叶えるため、未麻は世界の残酷さに立ち向かっていきます。

 

なんだかアイスピックや傘やトラックに殺されかけたような気がするけど、やがて未麻は女優として大成します。そして病院でガラスという越えることのできないフィルター越しに、過去(ルミ)を振り返ります。

 

「あの人がいなければ、今の私はなかった」

 

デタラメに頑張ったあの(ストーカーとレイプシーンとヘアヌードと血と汗と涙とアイスピックと血とトラックと血という)20代の過去がなければ、今の女優としての私はいない。

 

悩み、苦しみ、葛藤した、あの過去がなければ、今の私はいない。そして頑張っている今の私も、未来の霧越未麻の礎になる。無駄な選択なんてない。無駄な過去なんてない。

 

「私は本物だよっ」

 

そう。過去、現在、そして未来に繋がっている、このデタラメな人生こそが、本物の私。

 

たとえ表情が歪んでいるのが、鏡のせいじゃなくても! これが本物の私なんだ、とようやく自分自身を受け入れる、なんとも感慨深いシーンです(泣)。

 

そして、エンディングソングが清涼感溢れる、爽やかで明るい、アイドルソングという……。

 

な ん て 、 青 春 な ん だ ろ う !

 

ね? これがサイコスリラーなわきゃないんですよ! もしサイコスリラーだったら「ひぐらし」や「Another」っぽい陰鬱な曲を選ぶでしょうし。

 

なら、なんでこんなにもエンディングでアイドルソングがはまるんだい?

 

これが! 夢を! 本当の自分を! 追い求める! 青春活劇だからだよッ!

 

まだあります。人生について。

 

書きたいことはまだあります。そう、それは最後のシーン。鏡に向かって、「私は本物だよっ」と言った、あの感動的な(?)シーンです。

 

先程、PERFECT BLUEが本物の自分を追い求める「自分探しの青春活劇」だと言いましたが、実は未麻は「本物の私」ではないのではないかと考えています。

 

これは別に、『最後のシーンの未麻、実はルミでした~!』なんてふざけた考察をしたいわけでは決してありません。

 

人は絶対に本物の自分をみつけることはできないという話です。

 

人は、自分の目で自分の全体像をみることはできません。鏡、写真、映像、他人からの評価など、なんらかの物体にできあがった像でしか自分自身を捉えることはできません。そして人は外部にできあがった像をみて、それを自分自身と捉えます。

 

つまり、人は絶対に本物の自分を認識することはできないんです。

 

だから時に悩み、苦しみ、葛藤します。デタラメに藻掻きます。それでも、一本筋の通った、一貫した人間になるために、未麻はアイドルから女優をめざし、僕らも本物の自分を追い求めます。

 

これ、人生そのものじゃないですか?

 

人生は永遠に続く自分探しの旅であると思っています。PERFECT BLUEの最後のシーンで、鏡に向かって「私は本物だよっ」と言った未麻はきっとこのことを分かっていたのではないでしょうか。つまり、自分を探し続けることが大切であると。

 

『この鏡に写っている私も、きっと本物の私なんかじゃない。でもいいの。私は本物の私を探し続ける。霧越未麻はそのために生きるの』

 

鏡に写った霧越未麻は歪んだ笑顔を浮かべる。

 

「私は本物だよっ」

 

僕には、このセリフが未麻の生きる決意のように聞こえてならないのです。

 

まだまだあります。殺された人たちについて。

 

おいおいまだあるのかよ(ヒソヒソ)。

 

えぇえぇ、まだまだ書きたいことがあります。それは殺された人たちについてです。

 

クソシナリオ家、けぼーんカメラマン、事務所社長、オタク内田(オタクの鑑だと僕は分かっていましたよ……)、マネージャー(廃人も死人とカウントしておく)。

 

これらが殺された人たちです。何か引っかかりませんか?

 

そうです。全員、今監督が嫌いな人種です(特典映像を見ると、このメンツは今後のアニメ―ション制作に対する決意表明のようなものだと思われる)。

 

冗談です(あながち間違いでもありませんが)。

 

全員、女優としての霧越未麻を束縛している人たちです。霧越未麻が本物の自分だと信じている女優という仮面をコントロールできる人たちです。

 

この、支配者たちが殺されたということは、つまり霧越未麻は自由を求めていたと解釈できます。開放されたかったんですね。

 

殺したのが未麻じゃなくても、この物語の中で殺されたということに深い意味があります。

 

僕は先程から言っています。これは自分探しの青春活劇であると。

 

それは徹底的に自由を求めることでもあります。自由でなければ、自分探しには出発できませんからね。

 

女優として大成するために、束縛している邪魔な奴らを殺すことで、霧越未麻は自由をつかみとる。そして果てしない自分探しの旅へ。

 

つまり――。

 

まとめ:最高の青春活劇

 

雑多な人格から一貫した人格になるために、女優として大成するのを束縛している奴らを蹴散らして、夢だった本当のなりたい自分を目指していく。本物の自分なんて見つかりっこない。夢は全て虚像でしか写らない。でも、いい。私は本物の私を探し続ける。果てしない自分探しの旅でもいい。

 

それが私の「PERFECT BLUE(最高の春)」

 

PERFECT BLUEは、人生は青春であると僕に教えてくれました。それがたとえ終わりのない自分探しの旅だとしても、血と汗と涙にまみれた歪んだデタラメなものだとしても、僕は人生に無駄なことはなかったと信じています。

 

そう思えるようになったのは、この作品のおかげです。

 

はいというわけで(どういうわけだ)。

 

PERFECT BLUEは最高の青春活劇である! ガッテンしていただけましたでしょうか?

 

<ガッテンガッテン

 

ありがとうございましたー。