文化的遺伝子と僕

人生で出会った文化的遺伝子(ミーム)について、思ったことを書いていきます。

【奇跡】

万引き家族』、『そして父になる』と是枝監督の作品を見てきました。

 

是枝監督の作品はどれも、素朴で、質素で、生活感溢れる日本の風景を映し出すのが本当に上手いなぁ、と同時にドキュメンタリーのようなホームドラマの中に潜む人間関係のを描き出すのも上手いなぁ、と感じます。

 

そんななか、この『奇跡』という作品は、今まで見てきた2作とは違い、完全に視点が『子供』に置かれていました(他にも子供視点の作品はありますが)。

 

子役の演技の上手下手はありますが、それらは完璧な純粋さと愛らしさによって些細な問題へと昇華されます。大人にならざるを得なかった私たち大人だからこそ、忘れてしまっていた子供の純粋さを改めて思い出させてくれます(いやほんと、まえだまえだが可愛すぎて!)。

 

ですが、見終わったあと、僕はふと疑問に思いました。

 

ん? 奇跡?

 

それは『万引き家族』と『そして父になる』に比べて、タイトルの意味がよく分からないということでした。

 

一体、何が奇跡?

 

そうです。そうなんです。確かに主人公の兄と弟は離婚した夫婦のヨリを戻そうと、新幹線「つばめ」と「さくら」が初めてすれ違ったとき願い事が叶うという噂を信じて奇跡を起こそうとします。

 

しかし、弟は別の願いを叫び、兄は何も願わなかったのです(のちに兄は『世界を選んでしまった』と語ります)。

 

また兄が当初願っていた、『桜島大噴火』も起きませんでしたし、結局のところ両親も復縁することはありませんでした(少なくとも最後まで描かれなかった)。

 

そう。この映画では、タイトルとは裏腹に、奇跡という奇跡は一度も起きません(線路で消えたお婆さんは除く)。

 

僕を含めた観客たちはみな首を傾げたことでしょう。少なくとも釈然としない終わり方であることは間違いないです。

 

しかし、それが監督の狙いだったのでしょう。考えてみると、やはり奇跡はありました。

 

起こったのではなく、そこにあったのです。この映画はちゃんとタイトルどおり、奇跡を映し出しています。

 

では、その奇跡とは?

 

親のしがらみに囚われず、子供が夢を叫べる世界

 

↑これはあくまで僕個人の意見であり感想であり省察であり考察であり・・・。

 

まぁ、なんともくさい結論だこと。子供が夢を叫べる世界ですって(ヒソヒソ)。

 

しかし待って下さい。そう結論づけたのには理由があります。

 

暗示的なシーン

 

この映画には、いろいろ暗示的なシーンがあります。

 

  • 本当のインタビューのような画面構成で、子供一人一人にフォーカスしたシーン。夢や願い事について、赤裸々に喋る子供の幼心には胸打たれます(リラックスした状態で子役にインタビューすることで、子供は実は、誰の期待にも縛られない純粋な夢を持っているという暗示)。

 

  • とにかく人の「手」をフォーカスしたシーン。登場人物や脇役たちの「手」、あるいは「手のひら」を連続してみせていきます(人と人との繋がりの象徴である「手」をみせることで、助け合って生きていくこの社会こそが奇跡という暗示)。

 

  • 事あるごとに「世界」という単語が出てくる。兄の願い事の内容や、父がインディーズ止まりでフラフラしている言い訳として、そして駅前のパチンコ屋(親のしがらみに囚われず、広い世界で自分の繋がれる場所を探して欲しいという暗示)。

 

これらのヒントから、僕は「親のしがらみに囚われず、子供が夢を叫べる世界」こそが実現すべき奇跡、今ここにある奇跡、そして守っていかなくてはならない奇跡のように思えました。

 

親の離婚? 復縁? そんなこと子供は気にせんでよろしい!!(まぁそれは難しいだろうけど)

 

ママは弟より兄のほうが好きだからとか、そんなこと子供が考えんでよろしい!!(それでも子供は敏感です)

 

というか、それを子供に言わせるな!! 親!!(全くです)

 

子供には親のいざこざに囚われずに、純粋に夢に向かって突き進め!!

 

そんなメッセージがあるように、僕は思いました。

 

キャッチコピー:あなたもきっと、だれかの奇跡

 

人は誰しも生物学的な親がいます。そして子供でなかった人もこの世にはひとりもいません。子供時代を経て、みんな大人になっていきます。

 

今あなたが生きているということは、祖先の誰もが子供を授かり、育てたということ。

どこかで血が途切れたりせずに、今も祖先と繋がっているということ。

 

それはある意味、奇跡です。

 

――しかし。

 

約一万年前から人間の社会は、少しの打算的な判断力と少しの返報性によって拡大と発展をしてきました。血の繋がっていない他人と、ゆるい繋がりを保ちつつ、労働を分業していくことで、人間は透明な繋がりの可能性を押し広げていきました。

 

あなたの知らない赤の他人が、あなたのために今も身を粉にして働いている現実。

 

あなたが知らない赤の他人のために、あなたは今も時間を犠牲にして働いているという現実。

 

それが今の社会です。無数の透明な繋がりに依存しきっているのが今の人間社会です。

 

 

僕たちはもう、「親の奇跡」ではありません。「誰かの奇跡」なんです。

 

そうとは知らずに誰かの奇跡に荷担し、またその恩恵を受ける側である以上、今の子供にはできるだけ親のイザコザに囚われずに、夢を追っていって欲しいです。

 

(もちろん、親の影響がないほうがいいというわけではありません。親の愛は人格形成のうえでとても重要ですし、また人生のきっかけにもなります)

 

願い事を言わなかった兄は、『世界を選んでしまった』と言いました。

 

それはきっと『両親の復縁という血のつながり』よりも、『自分の夢、自分の人生のための社会的なつながり』を選ぶ決心をしたということの表れではないでしょうか。

 

大人と同じくらい、いやそれ以上に、子供も悩み葛藤しているんですよね。