文化的遺伝子と僕

人生で出会った文化的遺伝子(ミーム)について、思ったことを書いていきます。

【首】

 気が付いたら一ヶ月が経っていた。

 

公開してすぐに見に行ったはずなのに、そして最速でブログに書こうと思っていたのに、パンフレット買ったのに、それだけ楽しみにしていたのに。

 

いつのまにか、一ヶ月が過ぎていた。

 

僕たちの人生は、結局のところ、そのようにして忙しなく進んでいく。

 

そう、人生はあっという間だ。今があっという間なのだから、戦国の世はどれだけあっという間だったことだろうか。

 

北野武監督作品は、そんな人間の人生の「あっけなさ」を描いていく。

 

この人は、本当に、生というものに執着がない(自伝にも書いてあったけど)。むしろ作家として、生に執着する人間に執着がある。それはきっとある意味作家には必要な審美眼なのかもしれないなと思った。

 

人間ってこんなもの、みーんな阿呆か、そういう完全に人間として生きることを突き放した考え方を持っているのは、本当に凄いと思う。

 

なにより、その格好良さにシビれる憧れるぅぅな人たちがたっくさんいるからこそ、これだけ有名なんだと思う。

 

実は今作の公開前に、ソナチネ、HANA-BIの二作品を拝見していた。

 

ソナチネは生死を横断する軽快さ、海の青さがよかった。生命のあっけなさが逆説的に尊さを光らせていた。

 

HANA-BIは生死を芸術的に捉えた作品だった。バイク事故後ということもあり、いっそう自殺というものを劇化していた。バラバラの時系列、セリフの少なさ、言葉よりも絵、そういう映画、いや、動く絵画だった。

 

アウトレイジ時代をすっ飛ばして、本作「首」。

 

始終、ゾクゾクしていた。たぶんどこかの観客の携帯の着信音がずっと鳴り止まなくて、「うるさいんですけどッ」という怒号が暗闇から吐かれたあたりから、映画館内の雰囲気が異様なものになっていた。

 

なんだか、今にも争いが起こりそうな予感がした。画面いっぱいの血、死体、ギャグ、首、首、首、合戦。

 

いやはや乱世乱世。見終わった後、ずっとそう思った。

 

黒澤明「乱」を見終わった後もそうだった。今も昔も、乱世っちゃあ乱世だ。

 

若者もおじさんも、おじいさんもおばあさんも、みんなが映画館に足を運んで来たの映画を見に来ているという事実から、やはり乱世だなと感じるのは、僕だけじゃないはず。

 

異常、間違えた、以上。

【首】

 気が付いたら一ヶ月が経っていた。

 

公開してすぐに見に行ったはずなのに、そして最速でブログに書こうと思っていたのに、パンフレット買ったのに、それだけ楽しみにしていたのに。

 

いつのまにか、一ヶ月が過ぎていた。

 

僕たちの人生は、結局のところ、そのようにして忙しなく進んでいく。

 

そう、人生はあっという間だ。今があっという間なのだから、戦国の世はどれだけあっという間だったことだろうか。

 

北野武監督作品は、そんな人間の人生の「あっけなさ」を描いていく。

 

この人は、本当に、生というものに執着がない(自伝にも書いてあったけど)。むしろ作家として、生に執着する人間に執着がある。それはきっとある意味作家には必要な審美眼なのかもしれないなと思った。

 

人間ってこんなもの、みーんな阿呆か、そういう完全に人間として生きることを突き放した考え方を持っているのは、本当に凄いと思う。

 

なにより、その格好良さにシビれる憧れるぅぅな人たちがたっくさんいるからこそ、これだけ有名なんだと思う。

 

実は今作の公開前に、ソナチネ、HANA-BIの二作品を拝見していた。

 

ソナチネは生死を横断する軽快さ、海の青さがよかった。生命のあっけなさが逆説的に尊さを光らせていた。

 

HANA-BIは生死を芸術的に捉えた作品だった。バイク事故後ということもあり、いっそう自殺というものを劇化していた。バラバラの時系列、セリフの少なさ、言葉よりも絵、そういう映画、いや、動く絵画だった。

 

アウトレイジ時代をすっ飛ばして、本作「首」。

 

始終、ゾクゾクしていた。たぶんどこかの観客の携帯の着信音がずっと鳴り止まなくて、「うるさいんですけどッ」という怒号が暗闇から吐かれたあたりから、映画館内の雰囲気が異様なものになっていた。

 

なんだか、今にも争いが起こりそうな予感がした。画面いっぱいの血、死体、ギャグ、首、首、首、合戦。

 

いやはや乱世乱世。見終わった後、ずっとそう思った。

 

黒澤明「乱」を見終わった後もそうだった。今も昔も、乱世っちゃあ乱世だ。

 

若者もおじさんも、おじいさんもおばあさんも、みんなが映画館に足を運んで来たの映画を見に来ているという事実から、やはり乱世だなと感じるのは、僕だけじゃないはず。

 

異常、間違えた、以上。

【君たちはどう生きるか】

僕はジブラーではないので、細かい描写の考察や、ストーリーの考察なんかはいたしません。そういうのは、そういうのを仕事にしている人たちがお金をもらってやればいいわけで、別に自分の白痴さを電波にのせて発信したいとは微塵も思いません。

 

映画館に行く道中、鳥の死体をみつけて、おやこれは何か暗示的だな、とか思いつつ映画を見終わって、やはり帰りの道中でも鳥の死体はそのままの状態で放置されていました。

 

この映画が何を暗示しているのかを考えることは、置き去りにされた鳥の死体が何を暗示しているのかを考えることと同じような気がします。

 

アニメ―ション

 

さすがジブリと言わざるを得ませんでした。もうすっごいヌルヌル動きます(実際ヌルヌルした何かがたくさん出てくる)。

 

虫や鳥、魚やよく分からない生物まで、あらゆる空気感や質感、動きなんかが舌を巻くほど滑らかです。

 

そういう質感や空気感を絵と音だけでつくりだすこと自体が難しいはずなのですが、これを当たり前のようにやっているから本当にすごい。

 

炎の中を疾走するシーンや海の中に入っているシーン、本当に生きが詰まりそうになります。また満点の星空や風の吹く草原なんかはとても開放感溢れています。

 

背景の作画もとても綺麗で魅了されました。東京大空襲によって疎開せざるを得なくなり、地方の豪邸に移り住むことになりますが、その古きゆかしき田舎もまた味わい深いです。

 

音楽

 

久石譲さんです。か細いピアノソロは主人公の未熟さと若さをよく表していました。とても繊細で傷つきやすいけれども、時に冒険心と好奇心に溢れた、ファンタジー感溢れる、そんな音楽です。

 

こういう青い音楽って日本のアニメ映画によく合うんですね。

 

音響

 

先程にも書きましたとおり、質感を出すための効果音はとてもリアルでした。本当に映画の世界に入ってしまったみたいな感じで、自然でした。

 

声優に関しては、特に不自然には感じませんでした。ただ、役柄に関係なく老若男女から選んでいたことには、俳優さんたちの力量の底深さを感じました。菅田将暉さんすごいですね。

 

音楽の入れるタイミングもしっかりしていました。キャラクターの動きに合わせてカットが切り替えられて、そのタイミングで適切なBGMを挿入。観客を感慨深い思いにさせること間違いなしです。

 

総じて

 

youtubeに米津玄師さんと菅田将暉さんの対談が公開されていました。そちらをみると、やはり「君たちはどう生きるか」というバトンを引き継いでいくのが人生なのだと考えさせられます。

 

戦後78年。個人的にはまだそれくらいしか経っていないと感じています。未だに太平洋戦争は続いていると思っていますし、戦争の余韻というか余波というものはいつまでも残ります。

 

そろそろ太平洋戦争が幻想としてしか語り継がれなくなる時代に突入します。イメージの歴史しか知らない人間たちが、果たして平和を維持していくことができるかどうかは分かりません。

 

しかし、米津さんと菅田さんは50年後も生き続けたいと言っていました。生きて世界を見続けたい、そう言っていました。

 

宮崎駿からの、そして戦後世代からのバトンを明るいものと捉えるか、陰鬱とした懐疑心で捉えるのかは人それぞれですが、この映画を見ればしっくりとした答えが見つかるかもしれませんね。

 

僕はみつけました。なんとなくですが笑

たわいもない話

たわいもない話なのですが、小説を書き始めてから、意識的に小説を避けるようになりました。別にプロでもないのに。なんだかませたことをしているみたいですね。

 

理由の一つは、読んだ作品に影響されてしまうということです。

 

今の僕は自分の軸を形成するので精一杯なので(なにせ20歳!)、読んだ作品を片っ端から吸収していきます。吸収したものがいいか悪いかは後で判断すればいいから、本当になんでも面白い! 真似しよう! と思ってしまいがちなんです。

 

それがマンガや映画、ゲームのプログラミング、DTMならまだしも……小説ですからね。文法、言葉遣い、話し方、キャラのつくりかた、パラグラフのおきかた、形容詞副詞のつかいかたなんて、すぐに真似できます。なんせ文字の並びの問題ですから。

 

また、小説ではストーリーなんかも真似しやすいです。とくに推理小説なんかは。伏線の張り方が命なので、当然そこには作法ができあがります。あるいはSFや時代、学園ものなんかと混ぜて全く新しいサスペンスを作り上げるとか。とにかく、何かの「謎」というものは真似しやすいです。

 

そして真似しやすいもの(つまり色モノということですが)は往々にしてすぐに廃れてしまいます。つまり大衆によってすぐに消費されてしまいます。変化が激しい分、その消耗も激しいのです。

 

だから、今では意識的に小説を読むのは避けています。読むのは気に入っている日本人作家と海外作家だけ。昔は日本人作家しか読んでいませんでしたが、それでは流されてしまうと思い、今は書棚のほとんどは海外作家です。海外作家の文章はなんといってもパワフルなので(特にSF)、いい意味で鍛えられます。あとは同じ小説を何度も読んで、書き方のリズムを覚えます。

 

イデア醸造はもっぱらポピュラーサイエンスと科学雑誌です。また行動経済学や考古学、人類学、哲学、宗教学、民俗学なんかも好きです。つまりほとんど学問的知識から入ります。でないと確かなものが考えられないのです。

 

キャラの性格、セリフ回し、動作、ストーリーの流れはもっぱら映画を参考にしています。たまーにアニメもみます(特に今監督)。

 

ここまで来ると分かるように、僕の物書きは多段式でした。つまり、学問によって世界の土台をつくり、その上に映画的な登場人物を踊らせる。そして劇性をだす。

 

こんな感じですね。いやほんとたわいもない話だ。

そして僕はいま小説を書いている

小学生の頃、漫画を好きになった。

中学生の頃、ゲームを好きになった。

高校生の頃、アニメを好きになった。

大学生になって、映画を好きになった。

そして僕はいま小説を書いている。

 

なぜ小説を書くのか

 

きっと簡単には答えは出せないと思う。なぜならいろいろな理由をでっち上げることができるからだ。

 

例えば、才能がないことが挙げられる。僕は絵はかけないし、プログラミングも苦手だし、声優みたいに綺麗な声は出せないし、絵を何枚も動かすこともできない。

 

なぜ小説を書くのかを、ここに書き記したいのは、結論を出したいからではなく、断片を記録しておきたいからだ。

 

昔から、人間は〈破滅の陽炎〉だと思っている。つまり、そのときそのときの心情に行動を左右されやすいという、行動経済学や心理学なんかでは当たり前の、人間の〈不合理性〉についてここでは言っている。

 

だから生きている間にも、人間はとかくいろいろなものを想像する。難解な方程式の解法や世紀の大発見、いいストーリーのつづきなんかを、バス停で、Bath(風呂)で、シンク(think)で思いつくなんてことは、ざらだ。

 

だから僕は書き記す。生きている間に浮かび上がった、発送の上澄みを、掬いとりたいからだ。

 

なぜならそれこそが、個人の人生を最も豊かにする特効薬のひとつだからだ。

 

彼らが書くことを要請してくる

 

絵が描けなくて、演技も下手で、運動も苦手で、プログラミングも苦手で、撮影技法も知らなくて、人生経験も皆無な僕が、小説を書く理由は才能がないからだけではないと思っている。

 

小説を書くのに、才能はいらない。初期費用はたぶんクリエイターの中ではずば抜けて安いし、日本語さえ知っていれば本当に誰でも書ける。世の中に公表しないかぎりは、自分は世界で一番面白い作家だ。でも小説を書くうえで必要だと思ったことがある。

 

必要なことはたぶん、才能をつくることだ。才能があるではなくて、0からつくる。もちろん自分の人生観を才能という社会の求める劇性(ドラマチック)に転嫁しなければいけないから、人生観が0の人はまずそこから始めなければいけない。

 

それには多くの犠牲を強いられなければならない。

 

つまり、圧倒的に孤独であること。外部との接触を断ち、自分の中に哲学を醸造しなければいけないということ。

 

孤独の中ではだれも助けてくれないし、死んでも気付かれない。だがそこでは時間も、正義も、悪も、全て思いのままだ。何を考えても自由だ。

 

つまり、人間の外部性の影響を極力省くことから始めなければいけない。

 

登場人物が笑えば、もちろん僕も笑う。登場人物が悲しめばもちろん僕も悲しむ。登場人物が悩めば、もちろん僕も悩む。

 

登場人物が戦えば、もちろん僕も戦わなければいけない。

 

しかし、登場人物が死んでも、僕は生きなければいけない。

 

なぜなら僕は現実に生きているから。彼らは虚構で生きているから。

 

なぜなら僕は創造者であり、神であり、語り手であり、継ぎ手だから。

 

創造者である以上、僕が想像しなければ彼らは生きられない。もちろん彼らは死にたくないから、僕に書くことを要請する。

 

僕は楽しいから小説を書いているのではなくて、書かざるを得ないから書いているらしい。僕は彼らに死んでほしくない、生きてほしいから小説を書いている。

 

小説を書くことは呼吸することと同じで、生きていることと同じで、彼らの住む世界に対して人生を捧げることと同じである。

 

つまり僕は思考の上で、生死をわける戦いをしているらしい。

 

創造者である以上、生みだした世界に責任をもつことは当然だ。彼らには大いに生きてほしいからだ。だから歴史や経済、物理世界、人間の心理、生息する動植物、時代、イデオロギー、文化を知らなければいけないのは当然だ。そしてそれら世界の全ての事象を聖母マリアのような懐の広さをもって愛しなければいけないのは当然だ。

 

人は人生のうちで培ってきた世界を、何かかたちにして残さなければいけないと躍起になる生き物だ。例えば、芸術、子息、財産、地位、特許、科学的功績、創作物など。

 

僕は人だから、もちろんそうする。きっとあなたもそうするはずだ。

 

きっと近縁種のチンパンジーでは、こんな奇怪な文章は理解できないだろうから。

 

そして僕はいま小説を書いている。

【PERFECT BLUE】これは最高の青春活劇です【一周目】

こんにちは、自称、原理主義です(現実主義者ではありませんよ)。

 

きましたきました(大興奮)! 今敏監督映像作品の記念すべき第一作目「PERFECT BLUEですよ~~!

 

今回は「一周目」です。→ は?

 

つまり、「どうせ何回も見るんだから、きっと考察も変化するだろう」「なら、むしろ回数ごとに感想を書いていった方が、自分の中の変化が楽しめるんじゃないか」

 

「よし。回数ごとにどんどん考察アツくしちゃうぞい!」

 

というわけなんです(どういうわけなんだ)。しかし、これがこの映画の本質と言ってもいいでしょう。

 

つまり、二項対立を用いて、解釈のしかたを多様に用意していることこそが「現実と虚構の魔術師」今監督の狙いだということです。

 

※これは「物語に対するスタンス」にも関わってくる小学生並みの話ですが、長くなるのでまた今度。

 

なので回数を追うごとに矛盾したことを書く可能性が高いですが、その変化も楽しめればいいなと思っています(許されるはず、いや許されるべき、いや許してね)。

 

だって大好きなんだもの!

 

PERFECT BLUE のテーマ

 

この映画はサイコサスペンスではないと僕は思います。

 

もちろんサイコホラー要素は多々ありますし、殺人犯人を推理するサスペンス要素も散りばめられています。

 

エログロあります。ホラー演出もあります。

 

しかし、それらは全てOVAとして、当時のビデオショップで少しでも目立ちたいがための、副次的な要素に過ぎないと思うんです(実際、あのシーンはすこし過激にし過ぎた、と特典映像で反省を吐露しています)。

 

監督のテーマはそこにはないと思うんです(あくまで個人の意見ですよ~)。

 

分かる人が見れば、誰が死ぬかも、犯人の正体も、序盤ですぐに分かってしまいます。伏線は良心的なまでに張られていますし、仕掛けは特に目新しいものではありません(個人の意見です~~!)。

 

なので、PERFECT BLUEを、推理ドラマでありがちな犯人当てゲームだと思っているの人は、完全に勘違いしていますし、的外れな解釈をしてしまっています(純度100%個人の意見っすよ)。

 

ではこの映画のテーマは何なのか?

 

それを、順を追って語っていきます。

 

PERFECT BLUE の意味を知っている人はひとりもいない

 

見た人は必ず疑問に思ったはずです。

 

『で、結局「PERFECT BLUE」というタイトルの意味ってなに?』

 

実は意味は分かりません。なぜなら今監督自身がそう言っているからです。下に当時のインタビュー記事のリンクを掲載しておきます。↓

 

konstone.s-kon.net

 

ここからわかるように、竹内義和の原作小説パーフェクト・ブルー 完全変態からタイトルと基本的な設定だけをもらっただけなので、意味は竹内先生にしか分からないと思います。しかし、原作小説の内容は今監督の「PERFECT BLUE」とは違っているので、別作品と捉えるのが妥当です。つまり、原作者の竹内先生に聞いても分からないということです。

 

これ、めちゃくちゃ面白くないですか?

 

つまり、この世界にPERFECT BLUEの意味を知っている人はひとりもいないんです。逆にいえば、誰もがこのタイトルに、そしてこの映画に意味をもたせることができるんです!

 

あなただけの「PERFECT BLUE」

 

見る人を選ぶ作品かとは思いますが、見た人はきっとこの映画に自分だけの意味をみつけることでしょう! それはきっとひとりひとり異なったPERFECT BLUE。

 

あなただけのPERFECT BLUEです。

 

もちろん、僕だけのPERFECT BLUEも生まれました!

 

それを今回語っていきたいのです(しみじみ)。 

 

それでは、僕が思うこの映画のテーマ、それは――。

 

最高の「青」春活劇 = PERFECT 「BLUE」

 

あ、ここ笑うとこですよ。

 

『なんだよ。ダジャレかよ。たいして上手くもねぇし』

 

『何言ってんだこいつ。あのPERFECT BLUEが青春劇なわけないだろ!』

 

たくさんの幻聴がきこえてきます。えぇ……。

 

しかし! はっきり言います! PERFECT BLUEは最高の青春だ! と。

 

デタラメな人生こそが本物の私

 

「アイドルの霧越未麻とはもうおさらばっ!」

 

未麻の雑多な部屋は、完成されていない未麻の人格のメタファーとして機能しています。つまり、アイドルから女優へと心機一転しようとしつつも、心の中にはまだ迷いがある状態です。

 

まさしく青春要素です。夢だった女優にはなれた。けど、これが私の本当になりたかったものなの? 私の夢って、一体……。という夢と現実の狭間でゆれます。

 

初めての仕事は「あなた、誰なの?」の一言セリフと3カットだけ。あげく脚本家のクソシナリオによってレイプシーンを撮る羽目になり、けぼーんカメラマンによってヘアヌードを撮る羽目になり、この選択が本当に正しいのかだろうかと激しく葛藤します。

 

多重人格ドラマの脚本、ウェブサイト上の架空の未麻とリンクさせることで、未麻にしかみえないバーチャル未麻の存在感を際立たせ、表面的には拒絶しますが、やっぱりアイドルのほうがよかったという迷いを強調します。

 

「あなた、誰なのよ!?」『私は本物の霧越未麻よっ』

 

またまた青春要素です。あのときこうしていれば! という過去を悔やみ、今を嘆く葛藤。本当の私って一体……。自分探しあるあるです。

 

それでも女優という夢を叶えるため、未麻は世界の残酷さに立ち向かっていきます。

 

なんだかアイスピックや傘やトラックに殺されかけたような気がするけど、やがて未麻は女優として大成します。そして病院でガラスという越えることのできないフィルター越しに、過去(ルミ)を振り返ります。

 

「あの人がいなければ、今の私はなかった」

 

デタラメに頑張ったあの(ストーカーとレイプシーンとヘアヌードと血と汗と涙とアイスピックと血とトラックと血という)20代の過去がなければ、今の女優としての私はいない。

 

悩み、苦しみ、葛藤した、あの過去がなければ、今の私はいない。そして頑張っている今の私も、未来の霧越未麻の礎になる。無駄な選択なんてない。無駄な過去なんてない。

 

「私は本物だよっ」

 

そう。過去、現在、そして未来に繋がっている、このデタラメな人生こそが、本物の私。

 

たとえ表情が歪んでいるのが、鏡のせいじゃなくても! これが本物の私なんだ、とようやく自分自身を受け入れる、なんとも感慨深いシーンです(泣)。

 

そして、エンディングソングが清涼感溢れる、爽やかで明るい、アイドルソングという……。

 

な ん て 、 青 春 な ん だ ろ う !

 

ね? これがサイコスリラーなわきゃないんですよ! もしサイコスリラーだったら「ひぐらし」や「Another」っぽい陰鬱な曲を選ぶでしょうし。

 

なら、なんでこんなにもエンディングでアイドルソングがはまるんだい?

 

これが! 夢を! 本当の自分を! 追い求める! 青春活劇だからだよッ!

 

まだあります。人生について。

 

書きたいことはまだあります。そう、それは最後のシーン。鏡に向かって、「私は本物だよっ」と言った、あの感動的な(?)シーンです。

 

先程、PERFECT BLUEが本物の自分を追い求める「自分探しの青春活劇」だと言いましたが、実は未麻は「本物の私」ではないのではないかと考えています。

 

これは別に、『最後のシーンの未麻、実はルミでした~!』なんてふざけた考察をしたいわけでは決してありません。

 

人は絶対に本物の自分をみつけることはできないという話です。

 

人は、自分の目で自分の全体像をみることはできません。鏡、写真、映像、他人からの評価など、なんらかの物体にできあがった像でしか自分自身を捉えることはできません。そして人は外部にできあがった像をみて、それを自分自身と捉えます。

 

つまり、人は絶対に本物の自分を認識することはできないんです。

 

だから時に悩み、苦しみ、葛藤します。デタラメに藻掻きます。それでも、一本筋の通った、一貫した人間になるために、未麻はアイドルから女優をめざし、僕らも本物の自分を追い求めます。

 

これ、人生そのものじゃないですか?

 

人生は永遠に続く自分探しの旅であると思っています。PERFECT BLUEの最後のシーンで、鏡に向かって「私は本物だよっ」と言った未麻はきっとこのことを分かっていたのではないでしょうか。つまり、自分を探し続けることが大切であると。

 

『この鏡に写っている私も、きっと本物の私なんかじゃない。でもいいの。私は本物の私を探し続ける。霧越未麻はそのために生きるの』

 

鏡に写った霧越未麻は歪んだ笑顔を浮かべる。

 

「私は本物だよっ」

 

僕には、このセリフが未麻の生きる決意のように聞こえてならないのです。

 

まだまだあります。殺された人たちについて。

 

おいおいまだあるのかよ(ヒソヒソ)。

 

えぇえぇ、まだまだ書きたいことがあります。それは殺された人たちについてです。

 

クソシナリオ家、けぼーんカメラマン、事務所社長、オタク内田(オタクの鑑だと僕は分かっていましたよ……)、マネージャー(廃人も死人とカウントしておく)。

 

これらが殺された人たちです。何か引っかかりませんか?

 

そうです。全員、今監督が嫌いな人種です(特典映像を見ると、このメンツは今後のアニメ―ション制作に対する決意表明のようなものだと思われる)。

 

冗談です(あながち間違いでもありませんが)。

 

全員、女優としての霧越未麻を束縛している人たちです。霧越未麻が本物の自分だと信じている女優という仮面をコントロールできる人たちです。

 

この、支配者たちが殺されたということは、つまり霧越未麻は自由を求めていたと解釈できます。開放されたかったんですね。

 

殺したのが未麻じゃなくても、この物語の中で殺されたということに深い意味があります。

 

僕は先程から言っています。これは自分探しの青春活劇であると。

 

それは徹底的に自由を求めることでもあります。自由でなければ、自分探しには出発できませんからね。

 

女優として大成するために、束縛している邪魔な奴らを殺すことで、霧越未麻は自由をつかみとる。そして果てしない自分探しの旅へ。

 

つまり――。

 

まとめ:最高の青春活劇

 

雑多な人格から一貫した人格になるために、女優として大成するのを束縛している奴らを蹴散らして、夢だった本当のなりたい自分を目指していく。本物の自分なんて見つかりっこない。夢は全て虚像でしか写らない。でも、いい。私は本物の私を探し続ける。果てしない自分探しの旅でもいい。

 

それが私の「PERFECT BLUE(最高の春)」

 

PERFECT BLUEは、人生は青春であると僕に教えてくれました。それがたとえ終わりのない自分探しの旅だとしても、血と汗と涙にまみれた歪んだデタラメなものだとしても、僕は人生に無駄なことはなかったと信じています。

 

そう思えるようになったのは、この作品のおかげです。

 

はいというわけで(どういうわけだ)。

 

PERFECT BLUEは最高の青春活劇である! ガッテンしていただけましたでしょうか?

 

<ガッテンガッテン

 

ありがとうございましたー。

【奇跡】

万引き家族』、『そして父になる』と是枝監督の作品を見てきました。

 

是枝監督の作品はどれも、素朴で、質素で、生活感溢れる日本の風景を映し出すのが本当に上手いなぁ、と同時にドキュメンタリーのようなホームドラマの中に潜む人間関係のを描き出すのも上手いなぁ、と感じます。

 

そんななか、この『奇跡』という作品は、今まで見てきた2作とは違い、完全に視点が『子供』に置かれていました(他にも子供視点の作品はありますが)。

 

子役の演技の上手下手はありますが、それらは完璧な純粋さと愛らしさによって些細な問題へと昇華されます。大人にならざるを得なかった私たち大人だからこそ、忘れてしまっていた子供の純粋さを改めて思い出させてくれます(いやほんと、まえだまえだが可愛すぎて!)。

 

ですが、見終わったあと、僕はふと疑問に思いました。

 

ん? 奇跡?

 

それは『万引き家族』と『そして父になる』に比べて、タイトルの意味がよく分からないということでした。

 

一体、何が奇跡?

 

そうです。そうなんです。確かに主人公の兄と弟は離婚した夫婦のヨリを戻そうと、新幹線「つばめ」と「さくら」が初めてすれ違ったとき願い事が叶うという噂を信じて奇跡を起こそうとします。

 

しかし、弟は別の願いを叫び、兄は何も願わなかったのです(のちに兄は『世界を選んでしまった』と語ります)。

 

また兄が当初願っていた、『桜島大噴火』も起きませんでしたし、結局のところ両親も復縁することはありませんでした(少なくとも最後まで描かれなかった)。

 

そう。この映画では、タイトルとは裏腹に、奇跡という奇跡は一度も起きません(線路で消えたお婆さんは除く)。

 

僕を含めた観客たちはみな首を傾げたことでしょう。少なくとも釈然としない終わり方であることは間違いないです。

 

しかし、それが監督の狙いだったのでしょう。考えてみると、やはり奇跡はありました。

 

起こったのではなく、そこにあったのです。この映画はちゃんとタイトルどおり、奇跡を映し出しています。

 

では、その奇跡とは?

 

親のしがらみに囚われず、子供が夢を叫べる世界

 

↑これはあくまで僕個人の意見であり感想であり省察であり考察であり・・・。

 

まぁ、なんともくさい結論だこと。子供が夢を叫べる世界ですって(ヒソヒソ)。

 

しかし待って下さい。そう結論づけたのには理由があります。

 

暗示的なシーン

 

この映画には、いろいろ暗示的なシーンがあります。

 

  • 本当のインタビューのような画面構成で、子供一人一人にフォーカスしたシーン。夢や願い事について、赤裸々に喋る子供の幼心には胸打たれます(リラックスした状態で子役にインタビューすることで、子供は実は、誰の期待にも縛られない純粋な夢を持っているという暗示)。

 

  • とにかく人の「手」をフォーカスしたシーン。登場人物や脇役たちの「手」、あるいは「手のひら」を連続してみせていきます(人と人との繋がりの象徴である「手」をみせることで、助け合って生きていくこの社会こそが奇跡という暗示)。

 

  • 事あるごとに「世界」という単語が出てくる。兄の願い事の内容や、父がインディーズ止まりでフラフラしている言い訳として、そして駅前のパチンコ屋(親のしがらみに囚われず、広い世界で自分の繋がれる場所を探して欲しいという暗示)。

 

これらのヒントから、僕は「親のしがらみに囚われず、子供が夢を叫べる世界」こそが実現すべき奇跡、今ここにある奇跡、そして守っていかなくてはならない奇跡のように思えました。

 

親の離婚? 復縁? そんなこと子供は気にせんでよろしい!!(まぁそれは難しいだろうけど)

 

ママは弟より兄のほうが好きだからとか、そんなこと子供が考えんでよろしい!!(それでも子供は敏感です)

 

というか、それを子供に言わせるな!! 親!!(全くです)

 

子供には親のいざこざに囚われずに、純粋に夢に向かって突き進め!!

 

そんなメッセージがあるように、僕は思いました。

 

キャッチコピー:あなたもきっと、だれかの奇跡

 

人は誰しも生物学的な親がいます。そして子供でなかった人もこの世にはひとりもいません。子供時代を経て、みんな大人になっていきます。

 

今あなたが生きているということは、祖先の誰もが子供を授かり、育てたということ。

どこかで血が途切れたりせずに、今も祖先と繋がっているということ。

 

それはある意味、奇跡です。

 

――しかし。

 

約一万年前から人間の社会は、少しの打算的な判断力と少しの返報性によって拡大と発展をしてきました。血の繋がっていない他人と、ゆるい繋がりを保ちつつ、労働を分業していくことで、人間は透明な繋がりの可能性を押し広げていきました。

 

あなたの知らない赤の他人が、あなたのために今も身を粉にして働いている現実。

 

あなたが知らない赤の他人のために、あなたは今も時間を犠牲にして働いているという現実。

 

それが今の社会です。無数の透明な繋がりに依存しきっているのが今の人間社会です。

 

 

僕たちはもう、「親の奇跡」ではありません。「誰かの奇跡」なんです。

 

そうとは知らずに誰かの奇跡に荷担し、またその恩恵を受ける側である以上、今の子供にはできるだけ親のイザコザに囚われずに、夢を追っていって欲しいです。

 

(もちろん、親の影響がないほうがいいというわけではありません。親の愛は人格形成のうえでとても重要ですし、また人生のきっかけにもなります)

 

願い事を言わなかった兄は、『世界を選んでしまった』と言いました。

 

それはきっと『両親の復縁という血のつながり』よりも、『自分の夢、自分の人生のための社会的なつながり』を選ぶ決心をしたということの表れではないでしょうか。

 

大人と同じくらい、いやそれ以上に、子供も悩み葛藤しているんですよね。