【ジョン・ウィック】
当て書きだ!
お世辞にもキアヌ・リーブスのようなナチュラルマスクには残酷非道かつ冷酷無比な殺し屋は不釣り合いだ。
少なくともみる前はそう思っていました(そして上映開始後もしばらくそう思っていました)。
その偏見がひっくり返ったのは、この映画のシナリオを知ったときからでした。
主人公ジョン・ウィックは病によって先立たれてしまった彼女の最後の贈り物、愛犬デイジーを悪党共に殺され、足を洗っていた殺し屋の血がさわぎ、怒りと憎しみとともに元ボスの組織をまるごと壊滅させる。
これは主演、キアヌ・リーブスの壮絶な人生とも少なからず同期(リンク)しています。
キアヌ・リーブスは、赤子エヴァの死産によって元妻ジェニファー・サイムと破局し、その数年後に彼女は交通事故(或いは自殺)で命を落としてしまう。
僕が知らないだけかもしれませんが、この映画は当て書きのような気がしてなりません。
つまり、キアヌ・リーブスの、キアヌ・リーブスによる、キアヌ・リーブスのための映画。
愛する人を失った過去をもつキアヌだからこそ、紳士的な殺し屋が演じられるのだと思いました。
とても静かで、紳士的で、しかし適格に、そして丁寧に人を殺すという一風変わったジョン・ウィックというアクションは、キアヌ・リーブスにしかできないアクションとして作られたのかもしれません。
映画の撮り方
ジョン・ウィックは『こういう撮り方もあるんだな』という新しい発見であり、また非常に勉強になりました。
実際の俳優の過去を上手く昇華したストーリー、長回しで落ち着いたアクション、適格にヘッドショットを打ち込むリアルさ、夜の都会のビビッドな光線と銃弾が縦横無尽に駆け巡るクールな映像、軽快なライブハウス・ミュージック。
カンフーという体術、ハンドガンという銃火器を融合させた新しいCQC(近接戦闘)『ガン・フー』を確立。
画面の中心線より左側をジョンの領域、右側を敵の領域と分けて、左右交互にキャストを進退させて撮影することで、ストーリーの進行状況を視覚的に認識させるという撮影技法。
などなど。
しかし、僕が特に驚いたのは映画の展開の仕方でした。
ストレスと解放
最強の殺し屋が巨大悪党組織を壊滅させる!
これがジョン・ウィックをみる前の予備知識でした。なので、てっきり最初からカッコイイアクションが見られるのかと期待していました(僕だけ?)。
裏切られました。だって最初の数十分ずっと陰鬱な弱々しいキアヌしか出てこないから。
ジープみたいなゴツい車から瀕死で妻との思い出の動画を見て倒れる主人公。妻の心臓が停止したことを告げる音が響く病室。曇り空、妻の墓の前で雨に打たれる主人公。妻の最後の贈り物、愛犬デイジーの前で号泣する主人公。シンプル・モダンな豪邸を黒のマスタングで出発し、こみ上げるフラストレーションのままに、半ば自暴自棄的に運転する主人公。
終始陰鬱そうな主人公の映像が流れます。しかし、どうしてこんなにアクションまで焦らすのかというと、それはあえて観客にストレスを与えるためです。
かくかくしかじかで悪党に復讐を誓ったとき。シャワー室であらわになる、背中のタトゥー群。綺麗な豪邸にこびり付いた、汚い血を拭う表情。封印していた銃火器を取り出すために、豪邸の床下をハンマーで破壊する主人公。
まさに、ストレスからの開放です。その気持ちよさたるや、筆舌に尽くしがたいです。
驚いたのは、実は主人公と観客の心境がいつの間にか同期(リンク)するように仕掛けられていたことです。
主人公は大切なものを壊されたストレスをため込み、観客はクールじゃない陰鬱な弱々しいキアヌをみてストレスをため込む。そしてそんな行き場のないフラストレーションをとあるきっかけ(今回は悪党共の襲撃)によって、開放する。
この、主人公と観客にストレスを与え、同じタイミングで開放させることで、観客を一気に映画の中へと引き込むのです。それは例えようのない映画体験となります。
この、『ストレスと開放』の技法は時に観客を飽きさせ退場させかねませんが、周期を短くすればやみつきになる娯楽になること間違いなしです。
それを体現しているのが『ゲーム』という領域です。
ゲームにおけるストレスと開放の周期、その振幅
多くの場合、ゲームはストレスと開放の連続です。単調作業なレベル上げや素材集めなどのストレスと報酬やストーリー展開などの開放の繰り返しによって、徐々に人はゲームにのめり込んでいきます。
それはある意味、物語と自分自身が同期しているから。
物語と自分が同期した状態で、ストレスと開放の起伏、振幅を大きくすれば、もっとやみつきになるエンターテインメントになるはずです。
つまりストーリーの進行度によって難易度を上げるということです。これはどのゲームにも当たり前に組み込まれていますが、逆にいえば普遍的なシステムにはきちんとした理由があるのだと理解できます。
ゲームの二極化
僕はあまりゲームはやりません。なのでゲームに関して説教くさいことは言えないと思っています。が、思うことはあります。人間なので。
昨今のゲームはストレスと開放の周期が短い、即席娯楽的な、インスタント・エンターテインメント的なゲームが多いように感じます。プレイヤーを如何にしてヨイショするかということだけを考えている。プレイヤーにとても献身的な時代です。
同時にフロム・ソフトウェアなどの『死にゲー』が、逆説的に流行ることもあります。長い時間をかけて、忍耐強くやりこまなければ決してクリアできませんが、その達成感は何物にも代えがたい。
これらから分かることは、つまりストレスと開放の周期の二極化です。
これについては長くなりそうなので、また別の機会に。
つづくッ!(のか?)
【異端の鳥】
第76回ヴェネツィア国際映画祭において、『JOKER』と並んで問題作と言われた本作は、僕が初めて体験したホロコースト映画だった。しかし――。
ホロコースト映画ではなかった。
いや、実を言えば確かにホロコースト映画でした。正確な時代背景や舞台となった国は言及されてはいなく(これは監督自身の意向なのだけれど)、またそれはあらすじと随所に現れる登場人物たちのセリフから、これが東部戦線付近を舞台にしていることは理解できました。
しかし、この映画は決してホロコーストの残酷さを伝えたいわけではないと僕は感じました。ナチスドイツによるユダヤ人迫害は、ただのジオラマにすぎません。
この映画には一貫して生と死しか出てきません
それだけです。肉と肉がまぐわい、そして命が刈り取られていく。あらゆる動物の中に人間も含まれている、という有り体な構図ではなく、人間そのものを動物としてしか見られないように、あえて撮影しています。
この映画の解釈はほとんど全て、観客に委ねられています。色、音楽、表情、セリフ、そして主人公の名前すら削ぎ落とされた、非常にシンプルな、けれど単純明快とは真逆の、受け入れがたい現実を突きつけてくれます。その、人間にとって受け入れがたい現実を、どう解釈するかは全て観客に委ねられているのです。
では、その受け入れがたい現実とは一体?
それは、迫害です。
原題:ペインティッド・バード
という原題に沿ったシーンが劇中にあります。
それは白いペンキを塗られた鳥が仲間の群れへと帰っていく、この映画を象徴するようなシーン(本当に白いかどうかはわからない。なぜならこの映画には、白と黒と灰色しかないから)。
汚く塗られた、その異端の鳥は予想どおり迫害を受けます。もとは同じ仲間だったにも関わらず、まわりと違うということだけで、頭を穿たれ、翼をもがれ、群れから総攻撃をかけられ、そして地に落ちていきます。この展開は、たぶん赤子でも予想できる展開でしょう(もちろんこれは例え)。
問題は、その展開が誰にでも予想できてしまうことにあります。つまり誰にでも展開が予想できるということは、観客の中に根源的な残酷さがあることへの証明となっているからです。その受け入れがたい現実を、この映画は認識させてくれます。
同時に、中身は同じでも外見が違うだけで異端とみなし迫害してしまう私たち生物を客観視する機会も、この映画は与えてくれます。
つまり、どうして異端な存在を排除しようとするのか?
恐いから
とってもシンプル。そして本当にそうだと思います。
映画を見た人なら分かるかもですが、この映画には笑顔や幸福というものはありません。
登場人物全員、終始何かに怯えているか、悟りを開いて真顔か、悲しくて泣いているか、どれかです。ハッピーなにおいのするシーンはひとつもありません。あえて削ぎ落としてますからね。
異端かどうかは、その社会で優勢な集団が決めることです。異端であるということは、それだけで命の危険のサインとなります。異端を排除するということは、命の危険を排除することと同じです。
生物は異種間よりも同種間で、頻繁に争いますが、それは自分たちとは少しだけ違うという存在が、この世で一番の敵たり得るからです。少しだけ違うというのは、食べるものも寝る場所も考えることもセックスの仕方も狩りの仕方もある程度似ているけれど、少しあいつの方が整った顔つきをしている、肩が大きい、角が大きい、長く飛べる、などです。
つまり、ライバルのことです。
生物は往々にしてライバルと格闘を続けてきましたが、約1万年前、同じ社会空間の中でライバルと共生できるように工夫を凝らし始めた生物が出てきました。
それが――。
ホモ・サピエンス・サピエンス
リベラリズム、文化多元主義なんかのイデオロギーは冷戦後の世界においてハイエクとフリードマンによってもたらされたと考えられていますが、実は別の捉え方をするほうがずっと人類のためになります。
それは、リベラリズムは約一万年前、農耕社会へ定住化を始めたときから育ってきた文化的潮流であるという解釈です。
富の蓄積によって増大し続ける人間社会を上手く機能させていくには、他の生物と同様にいちいちライバルと争っていられません。それよりも取引、交換、交易をしたほうがよっぽどいい生活が出来ると、みんなが気付き始めたのは、約一万年前からです。
ライバルが異端だろうがなんだろうが、同じ社会空間の中で富を蓄積し続けることを強いるように、人類史は進んでいきました。制度と規範によって、個人の寛容さをどうでもよいものにしてしまったわけです。
あなたがライバルを認めようがいまいが、関係ありません。それよりも大切なのは、ライバルもあなたも、同じ社会空間の中で、同じようなものを食べ、同じようなものを楽しみ、同じような労働をし、間接的に依存し合うことです。
そう。同じ社会空間の中で間接的に依存し合うこと。それが約一万年前からはじまったイデオロギー、リベラリズムです。
それでもまだ、一万年
異端の鳥では約一万年前から克服しようとして、いつの間にか見て見ぬフリをしてきた、人間としての、生物としての現実を教えてくれます。贅肉の削ぎ落とされた、シンプルな映画だからこそ、その現実を強く認識させられます。
私たちはこの、似ているけれど少し違う者を危険分子とみなし、すぐに排除するという生物的現実を背負いながら、これからも手を取り合っていかなければならないでしょう。
実際、人生って本当に短い
僕は今、二十歳です。
んな若いくせに人生短いとか嘆いてんのか!
と糾弾されそうなのですが、少し待って下さい。
まず、嘆いていません。これは齢20にして、人生というものが本質的に短いということを感じ始めた、という話です。
生物にとって、死は生よりも重要視される
生物の進化は遺伝子というレガシーの蓄積だと思っています。生命が誕生して約35億年が経過し、自然淘汰や同種間或いは異種間との外部性によって遺伝子が少しずつ絞られていきました。多くの生物は――程度の差こそあれ――一世代での変化は微々たるものでした。それは人間も同じ。多くの死の積み重ねによって、一生物は少しずつ環境に選ばれていきます。生物にとって、死は環境による選択の大切な一過程と言えます。
人間の加速度的な影響力は文化的遺伝子によるもの
身の回りをみてみると、自分たちの世代がつくりだした物質は数多あれど、その初期プロットを計画し、アイデアを生み出し、世界に伝播させていった人たちはこの世界にいません。
それらアイデアを生みだしたのは、死者たちです。ニュートンも言っていたように(巨人の肩のやつ)、僕たちは死屍累々の山頂で今日もあくせく生きています。
死者たちが残してくれたもの。それは文化的遺伝子(ミーム)と呼ばれるものです。
人間の知力が猿の時代から変わりない(いやむしろ劣っている)のは事実として、ここまでの文明を築き上げたのは紛れもなく先人たちの遺産の結果です。
昔はクリエイターとオーディエンスに別れていた
人間が定住生活を開始して、殺戮と疫病と悪戦苦闘して、なんとか集団に余剰ができはじめた頃――。
物思いに耽る人が現れ始めました。
彼らはクリエイター。何かを創造する人たち。オーディエンスに見たこともない景色を提供する人たち。世界を豊かにしてくれる人たち。そして――。
限られた人にしか与えられなかった特権階級でした。(んな暇なことしてても誰からも反感を買われない地位があるとすれば、それは特権階級しかあり得ない)
貴族文化は大衆文化へと――まるでピラミッドのように――段階的におりていきます。時が経ち、情報伝播技術(活版印刷、蓄音機、伝送、インターネットなどなど)が生まれる度、クリエイター文化がオーディエンスにも伝播していきました。
今、全人類がクリエイター
小説を書く、映画を撮る、音楽を奏でる、アニメを描く。どうやら人間の創発性は――差こそあれども――平等に宿っているとだれもが理解し始めたとき、文化(カルチャー)に対する熱意は異常な程までヒートアップしました。
誰もが自分の世界をつくり上げ、共有し、『イイね!』をもらうことばかり考える。生きがいだと誤認し、作品を神格化し、盗用だと誤認し、放火をし、馬鹿にされたと誤認し、報復殺人をする。
今、全人類がクリエイターであり、これは喜ばしい反面深刻な問題も引き起こしている。それは――。
過酷なる文化的遺伝子淘汰時代
自分のつくりだした文化的遺伝子はとても魅力的であると同時に、生きている間だけしか産み出すことが出来ないので、後の世界に残るよう各人は死力を尽くし、孤軍奮闘します。
すると当然、競争と淘汰が始まります。
冷戦後のネオリベラリズム、大量消費社会はこの、存命の間に自分たちの文化的遺伝子を残したいがために産み出されたイデオロギーであると考えています。
絶えず新鮮な文化を喰らい、文化的遺伝子を醸造し、世の中に放出することだけを考える今の人間たちの目的は、生きている間にできるだけ多くの優れた文化的遺伝子を産み出すことです。そしてそれは多くの文化(カルチャー)に触れるしかありません(イマヌエル・カントでないかぎり)。
虚構の過剰摂取(フィクショナル・オーバードーズ)
昨今の大量消費社会において、映画、アニメ、コミック、ゲームなどの娯楽文化にかかっている期待と資本は計り知れません(そして年々増加している)。それは前述からも分かるとおり。存命世代間による文化的遺伝子の淘汰によるものです。
これを逆説的に捉えなおしてみます。すると、みんな自分の人生が有限時間内におさめられている存在だと自覚していることになります。
つまり命短し、恋せよ人類状態であるということになります。
これは虚構の過剰摂取による症状だと考えています。
みんな、起きてから寝るまでずっと人生という有限時間に無意識に囚われている。
僕は今、二十歳です(再考)。
僕だけでなく、現代社会に生きる人全て、文化的遺伝子の淘汰に翻弄されています。そしてみんな無意識的に人生の有限さを感じとって、『何か楽しいことはないかぁ』と日々悶えながら生きています。
言ってしまえば、時間という虚構に翻弄され、楽しい文化的遺伝子なしでは生きてはいけない、ミーム中毒者となってしまっている状況なのです。
そう考えてみると実際、人生って本当に短い。そう思っているのは僕だけではなく、あなたも同じなのです。そこに年齢の差などありません。気が付くか否かの問題なのですから。
このブログについて
もっと自由に書きたい!!
というわけでこの度有料ブログから逃げてきた者です。
内容と致しましては、人生で出会った好きなもの――
つまりは本、映画、アニメ、コミック、その他雑談なんかを気楽に書いていきたいと考えています。
――つまりは文化的遺伝子の寄生
僕の中では、混沌とした泥沼の中からふと浮き上がってきた泡のような感情を、感情のままにアウトプットしていく場所だと決めています。
そのため、もちろん読者に益となる文章を心がけますが、同時に自分の人生の益となる文章も必要だと思っています。
読者とブロガー、二つの領域の願望の相違はあるかとは思いますが、益となるものだけ掬い上げ、自分の中で醸造し、蓄積し、積み上げていけるような場所にしていけたら、Win-Winな時間を作れると思うのです。
というわけで
短い人生の中で出会った大切な本、映画、アニメ、コミック、その他諸々について、思ったことを書いていきます。
あなたにとっても、そして僕にとっても、この時間が有意義なものでありますように。