【異端の鳥】
第76回ヴェネツィア国際映画祭において、『JOKER』と並んで問題作と言われた本作は、僕が初めて体験したホロコースト映画だった。しかし――。
ホロコースト映画ではなかった。
いや、実を言えば確かにホロコースト映画でした。正確な時代背景や舞台となった国は言及されてはいなく(これは監督自身の意向なのだけれど)、またそれはあらすじと随所に現れる登場人物たちのセリフから、これが東部戦線付近を舞台にしていることは理解できました。
しかし、この映画は決してホロコーストの残酷さを伝えたいわけではないと僕は感じました。ナチスドイツによるユダヤ人迫害は、ただのジオラマにすぎません。
この映画には一貫して生と死しか出てきません
それだけです。肉と肉がまぐわい、そして命が刈り取られていく。あらゆる動物の中に人間も含まれている、という有り体な構図ではなく、人間そのものを動物としてしか見られないように、あえて撮影しています。
この映画の解釈はほとんど全て、観客に委ねられています。色、音楽、表情、セリフ、そして主人公の名前すら削ぎ落とされた、非常にシンプルな、けれど単純明快とは真逆の、受け入れがたい現実を突きつけてくれます。その、人間にとって受け入れがたい現実を、どう解釈するかは全て観客に委ねられているのです。
では、その受け入れがたい現実とは一体?
それは、迫害です。
原題:ペインティッド・バード
という原題に沿ったシーンが劇中にあります。
それは白いペンキを塗られた鳥が仲間の群れへと帰っていく、この映画を象徴するようなシーン(本当に白いかどうかはわからない。なぜならこの映画には、白と黒と灰色しかないから)。
汚く塗られた、その異端の鳥は予想どおり迫害を受けます。もとは同じ仲間だったにも関わらず、まわりと違うということだけで、頭を穿たれ、翼をもがれ、群れから総攻撃をかけられ、そして地に落ちていきます。この展開は、たぶん赤子でも予想できる展開でしょう(もちろんこれは例え)。
問題は、その展開が誰にでも予想できてしまうことにあります。つまり誰にでも展開が予想できるということは、観客の中に根源的な残酷さがあることへの証明となっているからです。その受け入れがたい現実を、この映画は認識させてくれます。
同時に、中身は同じでも外見が違うだけで異端とみなし迫害してしまう私たち生物を客観視する機会も、この映画は与えてくれます。
つまり、どうして異端な存在を排除しようとするのか?
恐いから
とってもシンプル。そして本当にそうだと思います。
映画を見た人なら分かるかもですが、この映画には笑顔や幸福というものはありません。
登場人物全員、終始何かに怯えているか、悟りを開いて真顔か、悲しくて泣いているか、どれかです。ハッピーなにおいのするシーンはひとつもありません。あえて削ぎ落としてますからね。
異端かどうかは、その社会で優勢な集団が決めることです。異端であるということは、それだけで命の危険のサインとなります。異端を排除するということは、命の危険を排除することと同じです。
生物は異種間よりも同種間で、頻繁に争いますが、それは自分たちとは少しだけ違うという存在が、この世で一番の敵たり得るからです。少しだけ違うというのは、食べるものも寝る場所も考えることもセックスの仕方も狩りの仕方もある程度似ているけれど、少しあいつの方が整った顔つきをしている、肩が大きい、角が大きい、長く飛べる、などです。
つまり、ライバルのことです。
生物は往々にしてライバルと格闘を続けてきましたが、約1万年前、同じ社会空間の中でライバルと共生できるように工夫を凝らし始めた生物が出てきました。
それが――。
ホモ・サピエンス・サピエンス
リベラリズム、文化多元主義なんかのイデオロギーは冷戦後の世界においてハイエクとフリードマンによってもたらされたと考えられていますが、実は別の捉え方をするほうがずっと人類のためになります。
それは、リベラリズムは約一万年前、農耕社会へ定住化を始めたときから育ってきた文化的潮流であるという解釈です。
富の蓄積によって増大し続ける人間社会を上手く機能させていくには、他の生物と同様にいちいちライバルと争っていられません。それよりも取引、交換、交易をしたほうがよっぽどいい生活が出来ると、みんなが気付き始めたのは、約一万年前からです。
ライバルが異端だろうがなんだろうが、同じ社会空間の中で富を蓄積し続けることを強いるように、人類史は進んでいきました。制度と規範によって、個人の寛容さをどうでもよいものにしてしまったわけです。
あなたがライバルを認めようがいまいが、関係ありません。それよりも大切なのは、ライバルもあなたも、同じ社会空間の中で、同じようなものを食べ、同じようなものを楽しみ、同じような労働をし、間接的に依存し合うことです。
そう。同じ社会空間の中で間接的に依存し合うこと。それが約一万年前からはじまったイデオロギー、リベラリズムです。
それでもまだ、一万年
異端の鳥では約一万年前から克服しようとして、いつの間にか見て見ぬフリをしてきた、人間としての、生物としての現実を教えてくれます。贅肉の削ぎ落とされた、シンプルな映画だからこそ、その現実を強く認識させられます。
私たちはこの、似ているけれど少し違う者を危険分子とみなし、すぐに排除するという生物的現実を背負いながら、これからも手を取り合っていかなければならないでしょう。